Voice of Canary

少数派キリスト者が感じるこの国に吹く風

政治ではなく魂の神社宗教を

牧師として、宗教は大切と思う。
他宗教であってもだ。
しかし、宗教と政治が結び付いたところで、
宗教は本来の命を失う。
人間のイデオロギーに取って代えられてしまう。
何か超越的なものに向かい合う宗教が、
何かの枠組みに組み込まれた途端に、
本来宗教が扱っていたものが、たちまち変容する。


神社も同じだ。
神社が政治と一つになってしまっていいのだろうか。
かつて民衆に寄り添い、生活のため、命の守りのために
豊穣の神に祈りを捧げていたのが、
国体のシステムに組み込まれた途端、
お国のために命を差し出すという形に変容したのではないか。
神が命を与えるのか、命を求めるのか、
本質的な変容を見ないわけにはいかない。

日本会議が求めている家族観や徳目が大切なのはわかる。
そうした渇望が、現代日本の混迷と倫理観の揺らぎから
生じていることも理解できる。
しかし、それは政治の務めだろうか。
内心の自由の中で踏み出す一歩だけが意味を持つのであって、
お説教のような憲法をこしらえて教え諭せば、
正しい人々がどんどん生まれるとは到底考えられない。
仮にそれが実現したとしても、
どこかの国の独裁的な元首の言いなりになることを求める国と、
同じ姿になるのではないか。
それはもう近代国家とは言えない。


神社宗教が政治と訣別して、
この悩める時代に真摯に向き合うことを求める。


他者を重んじること、親を大切にすること、
殺さぬこと、伴侶と子供を重んじること(不倫せぬこと)、
盗まぬこと、嘘をつかぬことなど。


キリスト教ならば、十戒の内容の一部だ。
しかし、これらはキリスト教に留まらず、
伝統的な宗教として社会の成立に意義を持ってきたものにおいては、
必ず盛り込まれる内容だろう。
これは政治と別の地点から、
力ではなく、法律でもなく、
心に届く仕方で届けることである。
政治の力で届けるのは、表面的な部分である。
外づらから心の深みに届く通路はない。
こうした心の深みにおいて受けとめられるべきものは、
人生の様々な場面の中で、
失敗や悲しみと共に受け取られるものである。
宗教はそのような悲しみに寄り添いつつ、
そっと、しかし深く導く。
法律にすることには馴染まない。
政治の力で社会システムは作れるかもしれぬが、
人の心の深みまでは作ることができない。
宗教として、この人の心の深み届く道を尋ねること、
これこそが宗教のなすべきことなのではないだろうか。