Voice of Canary

少数派キリスト者が感じるこの国に吹く風

日本は宗教国家になろうとしている(改憲草案20条問題)

自民党改憲草案第20条は、このブログでかねてから指摘しているように、
国家神道政教分離の範疇から除外することを意図している*。

 

要するに「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の願っていることの実現である。
その参拝自身はそれこそ個人的には信教の自由で何ら問題はない。
しかし、問題は憲法本文に書き込んで政治との特定の関わりを目指しているということだ。
明治憲法での天皇の臣民という思想への回帰である。

 

結論から言うと、政教一致は必ず人間の軽視につながる。
人間から抜きん出た言説がそこには存在し、
そうした言説への従順を求めるようになる。
政教一致のもとでは、ドグマの支配が避けられない。
それが神話に根拠するドグマであるから、
その優位の説明を求めても、皆が頷くような根拠ではない。
「話せば分かる」のが民主主義であるならば、
話しても分からない非合理なところに根拠を置くのが政教一致の体制である。

 

「欧米のキリスト教社会も政教分離ではないではないか」という
おおざっぱな意見を聞くことがある。
たしかに日本の近代の体制は明治期に伊藤博文を中心に
ヨーロッパのキリスト教社会体制を写し取ったものではある。
そこでは、宗教が社会の紐帯の役割を果たしていた。
しかし、写し取ったヨーロッパのそれ自身が
すでに耐用年数に限界を迎えていたものである。
伊藤と同時代人のニーチェは、すでに価値体系の基盤であった神の死を見ていた。
その後のヨーロッパの宗教の衰退を見れば、それは明かだ。

ナチス・ドイツ下、ヒトラーに無批判で、
国の教会(ランディス・キルヘ)がドイツ的キリスト教と化したことは、
キリスト教社会の終焉を物語る。
政治的に自由であって対峙した告白教会が、
政治と教会(信仰)の関わりのヴィジョンだろう。

 

政治と宗教が一致した場合には、事はドグマによって裁かれる。
要するに宗教裁判だ。

異端がはっきりする。

非国民というレッテルが貼られる。
かつて、われわれの教団が経験した戦時下の宗教弾圧、
またそれ以前の明治期の廃仏毀釈などを見れば、
国家神道が暴力的なドグマで裁いたことは明かだ。
しかも、キリスト教の場合と神道では、神と人間の関わりは全く異なる。

そこでは、人間の神格化は罪そのものである。

権威において人間と神が混ざることは決してゆるされない。
いつも神の権威の前に人間の権威は問われる。
宗教改革が神の権威を教会が横取りしていると批判したような、
ああした批判の契機は日本の場合存在しうるか。

国家の宗教化は、それまでつぶすのではないか。

 

かつての国体において、批判は許されなかった。
それゆえに、三百万の命が、
批判も許されずに散ることを余儀なくされたのではなかったのか。

 

政教一致を煎じ詰めたものは、ISだ。
自民党改憲草案が目指しているものがISそのものだとは言わないまでも、
必ず似たような風が吹き始める。
他の価値観を許さない。
欧米の社会構造の中途半端な模倣によって、
批判を除いた一神論的価値観だけが移植されている。
かつて弾圧を受けたわれわれだからこそ、
そう指摘するのがこの国に対する責任である。
人間を上回る権威に命を捧げることを要求するのだ。

殉教を強いるのだ。
政治は人間を生かすものではなくなり、
逆に政治が人間のいのちを求めるものとなる。

 

自民党改憲草案第20条
(信教の自由)
「第二十条 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない
「2何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。
ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」

(下線筆者)