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Voice of Canary

少数派キリスト者が感じるこの国に吹く風

「自由は保障する」は“無礼講の自由”――19条

自民党改憲草案で言うところの“自由”は、
権力者によって許可され、臣民に付与された一時的な自由で、
いわば「無礼講の自由」と言うべきもののように感じられる。

 

問題の、内心の自由を保障する草案の第19条は、
「思想及び良心の自由は、保障する」と
一応、自由は保障するとなっているかに見える。
しかし、この「保障する」は、保障するのがだれであるかを考えれば、
どうも国家権力の側の発言と思われる。
現在の憲法第19条が、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」というときに、それは権力者を縛る意味であるのだが、
どうも草案の起草者には、こういう自由とか人権の感覚が欠落しているようである。

 

自由は、人間の本性に関わる事柄である。
それが取り去られれば、人間であることすら失われるほどの事柄である。
現在の憲法の九十七条に「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とあるが、これが改憲草案ではそっくり削除されている。このことからも、この起草者がどういう感覚に生きているかということが窺える。

自由の重さをもはや本気には考えていない。

本気で自民党がこの改憲草案を考えているとすれば、自由でも民主でもない。

どこかの国の“民主主義人民”のように、

そうでないことを隠すためのまやかしの自由民主だと言わざるをえない。

自民党のリベラルは死に絶えたのか。本当に目を覚ましてほしい。