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Voice of Canary

少数派キリスト者が感じるこの国に吹く風

ホーリネス弾圧記念日に

今日6月26日は、太平洋戦争下、ホーリネス系教会に加えられた弾圧を記念する日です。74年前の1942年6月26日早朝に、ホーリネス系教会の伝道者たち96名の逮捕からはじまり、最終的には逮捕者は124名に及びました。中には獄死した牧師(菅野鋭、斉藤保太郎、辻啓蔵、小出朋治、竹入高、池田長十郎、佐野明治)もありました。

なぜ逮捕起訴されたのでしょうか。ホーリネス系教会が明らかにしていたキリストの再臨信仰、とくに千年王国(黙示録第20章)が問われました。千年王国は、キリストの支配が心の中だけの精神的領域に留まらずに、「地上に神の国の樹立」(聖教会会則第5条)と信じるものです。この「地上」が問題で、地上の支配者は天皇とキリストのどちらだと問われました。逮捕以前からこの圧力はあって、聖教会は先述の会則の「地上に」という言葉を削除します(他の要素もありますが事実上この通りで、1997年採択の日本ホーリネス教団の戦責告白は、この逸脱を悔い改めています)。信仰をゆるがせにした私たちの問題と同時に、当時の国家の宗教化も見ておかなくてはならないでしょう。一宗教団体のホーリネスの信仰について、国家が看過できなくなったのです。私たちがとくに社会的に争乱を起こしたわけではありません。宮城遙拝や国民儀礼などは渋々ながら守っていました。それでも、国家が「地上」を国体で染め上げようとした時に、染められない一点として現れ出てきてしまったのです。このことは、当時の国家が宗教化していたことの証しと言えるでしょう。

戦前・戦中の、いわゆる“国体”が何であるかについて、「犠牲を強いるシステム」(白井聡)という説明を読み、合点がいきました。それがたとえ犠牲であっても、人間が自分の人生を費やしても惜しくはないと思えるものを見出すことは、ある意味では幸せなことでしょう。ある人は、仕事に、家族に、使命に、趣味に、宗教に、思想にと自分を注ぐことは生きがいを見出すことです。しかし、それをその方向性が強いられる時に犠牲は変質します。かつて私たちの先輩たちが経験した弾圧は、犠牲を注ぐべきは天皇であってキリストではないと、内心の自由に踏み込まれたことと言えるでしょう。

かつて来た道に再び迷い込むことがないように、国のありようを見ていることも、私たち教会に与えられた預言者の使命であると思います。

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マイノリティだからこそ見える憲法20条改正の問題

自民党改憲草案では、第20条も危ない。小さき、しかし大切な声としてこれを訴える。

太平洋戦争中、われわれの教団は、当時の政府から宗教弾圧を受けた。かねてからの宮城遙拝が、自分たちの信仰と抵触していることに気づくことなく、国民の儀礼としてそれを行っていた。しかし、政府は戦局の激化から、国の思想統制を強化し、国体に合致しない宗教思想として、われわれの信仰内容の一部であるキリストの再臨を問題視した。

 

「1942年6月26日早朝、ホーリネス系の教職者96名が逮捕された。これが、第一次検挙である。1943年4月に第二次検挙が行われて、第一次と第二次を合計すると、日本基督教団に併合されていた第6部(旧日本聖教会)60人、第9部(旧きよめ教会)から62人、妥協して教団に加わらず宗教結社であった東洋宣教会きよめ教会12人、合計124人が逮捕された」(ウィキペディア「ホーリネス弾圧事件」より引用)。

 

獄死する者まで出た。問題は、キリストがやがて地上を千年にわたって支配するという、ヨハネ黙示録第20章に描かれるいわゆる“千年王国”であった。千年王国とは、キリスト教的救済が地上に展開されるものであるが、それが国体に基づく政治体制とぶつかると言うことであった。このことの問題性は、宗教の自由は精神的な世界に限定されるというものである。当時、宗教の自由は制限され、別の思想体系(国家神道)によって、弾圧されたのである。

同種の動きが、2012年4月27日決定の自由民主党の「日本国憲法改正草案」に見られる。信教の自由を扱う第20条3項は、以下の通りだ。

 

「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」

 

但し書き以降が要である。神社宗教は社会的儀礼であるという理解とのセットであり、神社参拝を国が行うことへの道を開いている。それは事実上、国家神道の国教化への道である。

その上で、新設の「第9章緊急事態」の第99条3項では、緊急事態時には信教の自由は保障しないことが読み取れる。

 

「この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。」

 

「最大限に尊重されなくてはならない」という条項から、第20条が落ちている。緊急時には、社会儀礼としての国体の護持に努め、勝手な信仰はゆるさないという意図がはっきりと読み取れる。この延長線上には、かつてのホーリネス弾圧が相当はっきりと見えてくる。

 

改憲の問題の焦点は、第9条であることは、その通りである。しかし、圧倒的なマイノリティーであるキリスト教会、しかも戦中に宗教弾圧を受けたわれわれからありありとうかがえるのは、第20条に忍ばせる政府の意図である。ほかの価値観を下位に置きつつ、お国のために散る道筋が着々と整えられている。その意味では、この第20条の問題も、実は重要だ。死と命を意義づけるのが宗教の務めと言ってもよいが、そこに国が介入しようとしているのである。「犠牲を強いるシステムとしての国体」(白井聡著『永続敗戦論』、太田出版)を内容とする疑似宗教が姿を現しはじめている。

 

安倍首相は、この7月の参院選むけて、不気味なほど改憲問題を語らない。注視すべきだ。経済成長の煙幕の中で、本当にやろうとしているのは強く美しい「日本を取り戻す」ことなのである。国民の意識に上らないように密かに、国益のためにいのちすら差し出させる思想体系が準備されつつある。この国を愛するがゆえに、そこにうごめくものを指し示さざるをえないのである。マイノリティーの小さな声ではあっても、毒ガスにいち早く反応するカナリヤの息苦しい声として響くことを願う。